(photo by Tohru Watanabe)
○関ヶ原勝利の影の立役者
かなり前になってしまうが、関ヶ原の戦いが東軍が短期決戦での圧勝に終わったのは、一般に言われているように小早川秀明の寝返りだけでなく、予期していなかった(徳川側と内通していなかった)武将の寝返りにあることは前の記事で述べた。
そして、さらにいえば、後方の西軍が動けないように通せんぼした影の立役者もいる。
その武将の名は、西軍に属していた毛利家の武将「吉川広家」その人である。
○暗躍する吉川広家
吉川広家は、中国地方の大国毛利の一族で、その時の毛利主君・毛利輝元のいとこにあたる。
毛利輝元はこの戦いにおいて、西軍の総大将になる決断したが、吉川広家は徳川方勝利を信じ、輝元らに無断で黒田長政などを通じて徳川方と接触。
毛利が東軍と戦う意思がないことを伝え、毛利の領土を安堵してくれるよう約束を取り付けた。ここで、重要なのは、吉川広家は自分の安泰ではなく毛利家の安泰を願っていた点である。
そして、いよいよ関ヶ原の戦い当日を迎える。次の図を見ていただきたい。吉川広家は見事な場所に陣を構えた。
○吉川広家の「通せんぼ」作戦
吉川広家は、南宮山の麓に陣を構え、その後方には、同じ毛利一門の大将・毛利秀元、中束正家、安国寺恵瓊、長曾我部盛親を結果的に「押さえる」形となった。
合戦が始まり、石田三成は当然のごとく諸将に参戦を呼び掛けた。だが、吉川広家はまったく動かない。それどころか、後方の部隊は広家隊が動かないので身動きがとれなくなったのだ。簡単に言えば「通せんぼ」状態である。
東軍と戦う気満々の自軍の大将である毛利秀元の要請にも動かず、中束正家、安国寺恵瓊、長曾我部盛親の使者には霧が深くて動けないなどとごまかした。
そうこうしているうちに、西軍には寝返りが相次ぎ、一気に形勢は東軍有利となり大勝利へとつながった。
結局、毛利隊および中束正家隊、安国寺恵瓊隊、長曾我部盛親隊も一戦を交えることなく勝負はついてしまった。
このとき、毛利秀元15000、中束正家1500、安国寺恵瓊1800、長曾我部盛親6600の兵力を持っていたといわれている(ちなみに吉川広家は3000)。これらの軍勢が徳川本体後方から攻め込んでいれば、この戦いはどうなっていたかまったく判らないだろう。
つまり、吉川広家は関ヶ原の戦いのおける東軍勝利の大立役者なのである。
○約束を反故にされた吉川広家
吉川広家にしてみれば、関ヶ原の戦いの勝利は完ぺきな結果であった。毛利一門に戦をさせず、そのうえ東軍の大勝利となったのだから、毛利領は安堵、ひょっとしたら加増もあるかもしれないなどと考えていたことだろう。だが、結果はまったく違うものとなった。毛利家は改易、吉川広家には周防・長門の二国を与えると決められたのである。
焦った広家は、自らに与えられる二国を辞退しても毛利家の存続を家康に願い出たという(創作という説有り)。その結果、吉川広家に与えられるはずだった周防・長門は毛利宗家に与えられることになり、毛利輝元の命も救われた。
○一族から冷遇された吉川広家
このように毛利家存続のために活躍したようにみえる吉川広家だが、毛利家での評価は芳しくなかった。なぜなら、主君に内緒で家康と通じ関ヶ原の戦いでは、味方の動きを封じ「裏切り行為」を行ったからである。毛利家を窮地に陥れたのは、吉川広家その人であるという評価だ。そのために、吉川広家は、あらたに毛利氏が本拠とした萩から最も遠い岩国3万石を与えられた。さらに他の一族の領国はそれぞれ支藩として認められたが、吉川広家の岩国領は、江戸幕府からは「藩」と認められているにも関わらず、毛利家では明治になるまで単なる領国とされ、毛利宗家の家来扱いであった。
○不思議な戦いであった関ヶ原の戦い
このように、関ヶ原の戦いは他の大きな戦と違い、参加武将が個々の判断に基づいて行動するという不思議なものであった。
東軍勝利には、今回の吉川広家や前回挙げた脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らの功績が大である。それにも関わらず後世、彼らが取り上げられることが少ないのは、歴史は時の権力者、あるいは大衆が求める英雄像によって作られてゆくからであろう。
すべての歴史を見返すのは疲れる作業だが、時には名もなき人物の生きざまを顧みることも面白いものだ。